パッキングは前日に終わっていた。
朝の6時00分。外はまだ薄暗い。
俺は死ぬほど重いグレゴリーセラック45を担ぎ、外に出た。重いのは黒霧島が瓶のまんま入っているからだ。
最寄りの駅から新京成電鉄に乗る。電車は行ったばかりで、ホームには反対側の電車に乗る女子高生が一人。部活の弓道の道具を邪魔そうに抱えてぽつんと立っているのみ。
本数が少ない早朝ダイヤなので、散々待っていると、林家パー子のようなピンク色の電車がひょっこり現れた。新津田沼駅で黄色い電車の総武線で乗り換えて、俺は新宿を目指す。車内はガラガラだった。さすがに45Lのザックはデカイので、車両の端の座席をキープし、これからの長い電車旅を少しでも短くするように、もう何度目かの村上春樹「遠い太鼓」を読み始めた。
水道橋を過ぎると更に人は居なくなり、鄙びた温泉旅館の貸切バスのような状態で新宿駅に流れ着く。打って変わって降りた瞬間から猛烈な人混みに巻かれ、アレヨアレヨと新宿駅南口にたどり着いた。まだ集合時間まで40分はあるので、駅ナカのスタンディングドトールで茶をしばくことにする。
行き交う人混みを眺めながら、俺はなぜ一人ここに居るのかを読者諸君に説明するのを忘れたことに気がついた。
*
大菩薩嶺に4年ぶりの登山である。日本百名山のひとつで2000メートル級の山である。
山小屋一泊の予定だ。
メンバーはパンダ隊長(56)、ムナさん(67)、俺(46)の3人。仕事繋がりである。本当は巨悪を追うジャーナリストの石和氏も来る予定だったのだが、2日前の夜に居酒屋の2階の階段から滑落して、腰を痛めたらしいのだ。なので今回は3人。8時ちょうどのあずさ2号の8号車に待ち合わせ予定だ。
ドトールは死ぬほど混んでいた。お昼の銀座天龍かってほどに店外までの行列だ。他に珈琲屋の選択肢もないので、一旦トイレに行き、光子力ビームを下半身から照射した後、もう一度ドトールに戻ると少し空いていたので店内に入ることにした。邪魔なので45Lのザックは店の外に置いてある。
程なくパンダ隊長が現れた。隊長も早目に来てドトールで一服してからホームに向かうのだろう。珈琲とジャーマンドッグを買い隣りに来てくれた。副流煙を一服して、落ち着いてからホームに降りるとムナさんは待合室の椅子に座っていた。僕らは8号車の乗り場に荷物を置いてムナさんと合流した。指定席を取ってあるのでゆったりと電車を待つ。この座れるか座れないか焦らなくて済むだけで指定席の価値は十分にある。大人になったのでなるべく指定席で移動したいものだ。
すぐに特急かいじが来て乗り込み、シートを回転させて向かい合わせた。すーっと新宿駅を滑るようにかいじは走り始める。トンネルを抜けるたびに耳をぴーんと鳴らせて、居眠りをする暇もなく塩山に着いた。
4年ぶりの塩山駅。
トイレを済ませ、買う気も無いのにお土産屋をひやかしてからタクシーに乗り込んだ。
一路、柳沢峠へ。
タクシーの運ちゃんは、久米宏のように軽快なトークで気象予報やら最近の登山事情を解説してくれた。柳沢峠に着くと、4年前には無かった光景が広がっていた。
自転車ローディの大群。最近のサイクリングブームで、八王子から丁度いい練習コースになっているらしいのだ。
タクシーの運ちゃんは憎々しげに語っていたが、俺はどっちかというとローディ側。結局最後まで俺が山より自転車を愛していることを言い出せなかった。
タクシーを降りて、東屋で早目の昼飯を摂った。山の天気は変わりやすい。この先どこで雨に降られるか分かったもんじゃないからだ。食事も終わり、ローディの大群を横目に準備運動をしてから森に帰る熊のように我々3人はごそごそと登山口に入っていった。
4年ぶりの山道。
あれ、こんなに遠かったっけっ…てぐらい歩いた。足元は朝の豪雨でぬかるんでいて、特に岩の上では注意が必要だ。泥がついた登山靴で岩にのるとツルツルと滑るからだ。危なくトゥールッツを決めかけた。フィギアでは得点が付くが山道でのトゥールッツは減点対象だ。
4年前に比べて苔が増えただろうか。パンダ隊長は八ヶ岳よりよっぽどこっちの方が苔生(こけむ)していると言っていた。
まるでもののけ姫の世界だ。
なんて、みんなで何度言ったことか。
六本木峠で休憩した。パンダ隊長は休憩中も執拗に熊よけ鈴を鳴らしていた。俺は熊が来たら巴投げをかましてやろうと思っていた。そして投げた後、一目散に登る木を見繕っていた。
ドロドロ道にかなり難儀したが、割と高低差のないコースなので助かった。
一瞬だけ富士山は顔を覗かせてくれた。
そして、念願のゴール。
なんとか無事に丸川荘に着いた。店主の只木さんは4年ぶりの僕らを「なんか見たことある人たちだ」と、覚えてくれていて、温かく迎え入れてくれた。
そうよ、4年前はあの日本のバックパッカーの先駆者、シェルパ斉藤さんと泊まったんよ。これ自慢な。小屋には先客がいらっしゃった。6人のパーティ。一人の女性が足を捻挫(後に骨折と分かる)されていて、歩くのも困難なようだ。
取り敢えず僕ら3人は明るいうちに荷物を部屋に置いて、ヘッドライトとお酒、つまみなんかを携えて、ぞろぞろと食堂に集まった。君らは山の素人だから分からんと思うが、このヘッドライトを明るいうちから首にぶら下げておくのはちょっとした知恵である。山小屋は通常、電気なんか無いからちょっとでも陽が落ちると真っ暗になるのだ。さらにトイレは小屋の外にあるのでヘッドライトがないとおしっこをする猶予もないのだ。
これが本当の
シッコーユウヨ
なんつってなw
パンダ隊長がワインを2Lも担いできた。1Lは赤、もう1Lは白。この紙パックのワインが安いんだろうけど、めっちゃ美味くてな。フルーティな口当たりと芳醇な香り。程よい酸味も加わって飲みやすいのよ。
ついついガブガブやっちまったね。
その後は夕食。キノコのホイル焼きが美味かったなぁ。写真には無いんだけど。そんで隣りのグループの皆さんと一緒に山小屋の店主を囲んで歓談タイム。これが楽しみなのよ。
そういや、店主とは別に小屋をお手伝いしている若いご夫婦が居てね、4年前にはいらっしゃらなかったんで事情をお聞きすると千葉県からこちらに移住されたとか。しかもウチの隣りの市から。びっくらたまげたね。世界は狭いなぁ。しばらく地元あるあるやってたけど、羨ましい生活されてるね。
リアル「人生の楽園」かよ!
あとは桃ちゃーんお願いしまーす!
西田敏行ってか。
それと、お隣さんのグループさんは、丸鍋というアウトドアクッキンググッズを愛好する会なんだとか。丁度お誕生日が重なった方がいらっしゃって誕生日ケーキが。山小屋で初めてケーキを見たわ。
俺も先月46歳になったのをアピって無理矢理お祝いしてもらったわ。
盛り上がる丸鍋の会を横目にムナさんとパンダ隊長はネムネム状態。まずはムナさんがお布団部屋にジャイアントストライドエントリーしながら吸い込まれた。
その後パンダ隊長もお布団部屋に向かった。気になってついて行ったら、パンダ隊長は「ちょっと休憩して宴会に戻ってきます」と行って布団の海にバックロールエントリーしていった。
もう、戻ることはないだろう。
宴会は誰かが持ってきたオモチャの口ひげを全員が試すという、やっただけで爆笑コーナーに突入した。お酒のチカラでもう何をやっても全員ゲラ状態だった。山小屋なのにこれ以上ないほど盛り上がったが、さすがに22時に終演となった。
俺も冷たい布団に潜っていった。夜中に2度トイレに起きただろうか。トイレは外にある。ガスがかかっていたが、なんとか星は見えた。仄暗い雲間から覗く星空は、やっぱり凄い数だった。